「有り難い」と「当たり前」

千葉県 浄土真宗本願寺派 最誓寺住職 堀田了正

 

 Y様一周忌法要法話

   2016/11/13 A葬儀社にて 

Y様 一周忌法話

 

 今、全国の真宗寺院で、「報恩講」という法要がお勤めになられています。
「報恩講」とは、浄土真宗をお開きになられました、親鸞聖人のご命日の法要です。(ご本山:西本願寺では、1月9日から16日にかけてお勤めになられます。)
 最誓寺では、千葉組南ブロックで一番最初の10月23日(日)にお勤めいたしました。
 報恩講に当たり、資料を整理していたところ、「報恩講をご縁に③」報恩講は、ありがとうの集い!という本願寺のリーフレットが出てまいりました。

 転載いたしますと、

 ある人の詩に、ありがとうは しあわせの あいさつです という言葉がありました。
 「ありがとう」と言われたら、幸せな気持ちになりますし、「ありがとう」と言うことができるのは、幸せの証しでもあるでしょう。

 私たちの欲望には限りがありません。
 そうすると、「あれが欲しい」、「これが足りない」と、不平・不満の毎日になります。お念仏を喜ぶ者も煩悩や欲望がなくなるわけではありませんが、不平・不満の毎日が、「ありがたい」、「もったいない」という身に変えられます。
 これは、念仏者は、ご恩のわかる人に育てられたからです。
 ご恩のわかる身に育てられたのは、阿弥陀さまの智慧と慈悲が、私を照らしてくださったからであり、親鸞さまが、その教えを私に伝えてくださったからです。

 そのことを感謝し、ご恩に報いようとする営みが、報恩講。
 報恩講は、「ありがとうの集い」です。


 ある人のある詩、「ありがとうは しあわせの あいさつです」 という言葉を早速調べてみましたら、このことばは、天才ひらがな詩人「くりすあきら」さんの詩に出てくることばであることがわかりました。

 くりすあきらさんは、異常分娩により、知的障害、脳性麻痺、腎臓障害など数々の障害を持ちながら、心に染み渡る多くの詩をひらがなで詠まれています。
各地で「あきら展」を開催し、NHKハート展に7回入賞され、テレビで放映されていますので、見られた方もおられるでしょう。

 

 詩を紹介いたしましょう。

 

ありがとう
ありがとうといわれたら しあわせになります
でもありがとうは なかなかいうて もらえません
しんせつにせんと いうてもらえません
どりょくせんと いうてもらえません
ありがとうは しんどいことなのです
だからぼくは しんせつにしてもろうたら
すぐありがとうと いうことにしました
ぼくのために どりょくしてくれたんじゃけん
ありがとうといいます
ありがとうは しあわせの あいさつです


 「ありがたい」とは、「有り難きこと」「滅多にないこと」ということです。その反対が「当たり前」です。

「失って初めて、そのありがたさに気付く」とよくいわれます。私たちの人生経験を振り返ってみますと、何度もその通りだと思い当たることがありますね。。当たり前のこと、平凡なことに感謝できる人は、『日常のありがたさ』に気付いている人でしょう。当たり前過ぎて気付かないことは、たくさんありますが、実はそれが一番大切なものであるかもしれません。私自身も「当たり前のありがたさ」に気付く心を持ち、常に感謝の心を忘れないようにしていきたいと思います

 実は、今日「ありがとう」というお話をさせていただきましたのは、本日Y様の一周忌法要の進行を勤めてくださっているA葬儀社のSさんと、先日ある方のご葬儀でこのA社でお会いいたしまして、私を憶えていてくださいました。 ちょうど1年前、Y様のご葬儀の時の法話で、高倉健さんの座右の銘である、「往く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし」(「我行精進 忍終不悔」)という浄土真宗の根本聖典である「大無量寿経」で説かれている言葉を、天台宗の大阿闍梨であり、千日回峰行を二度達成された酒井雄哉師から授かったという話を憶えていてくださったといういきさつがありました。
 Y様とご縁をいただきまして、仏さまのお話をさせていただき、一年経っても憶えてくださっているとは、誠に有り難いことでございました。
 これも、御仏になられましたY様から賜りました、有り難いご縁と申させていただきたいと思います。
 そして、先ほどお話しさせていただきました、「当たり前の有り難さ」に気付く心を持ち、常に感謝の心を忘れないようにしていきたいと思います。
どうも有り難うございました。  合掌