一茶とのであい

 一 茶 と の で あ い(再掲)
千葉県 浄土真宗本願寺派 最誓寺住職 堀田了正
※この「一茶とのであい」は、東京教区千葉組(浄土真宗本願寺派・西本願寺)のホームページの2014年「10月法話」に、住職が投稿した内容を加筆したものです。
 小林一茶といえば、「我と来て遊べや親のない雀」とか、「痩せ蛙まけるな一茶是に有」「やれ打つな蠅が手をすり足をする」といった、子どもたちでもよく知っている、親しみやすい句を詠んだ江戸時代の代表的な俳人です。
 かつて最誓寺法話会で、「お念仏を喜ばれた先人の生き方に学ぶ」をテーマに、一年間「妙好人(みょうこうにん)」と讃えられた方々の生き方を学ばせていただきました。
 妙好人とは、言葉では言い尽くせないほどうるわしい人ということで、熱心に聞法して、生涯念仏を相続した篤信の人たちを賞め讃えた言葉です。
 資料を探していたところ、一茶が浄土真宗の門徒であり、妙好人の一人に数えられていることを知りました。
 一茶は、生涯二万句に及ぶ句を詠んだといわれていますが、その中に、浄土真宗(仏教)のみ教えに裏付けられた句が随所に見受けられていることを知り、浅学な私にとっては、新たな一茶を発見した驚き・喜びを感じた次第です。
 そこで、今回は、「一茶とのであい」と題して、一茶の生い立ちと、詠まれたいくつかの句をご紹介したいと思います。
▲小林一茶・65年の生涯
 一茶(1763~1827)は、お念仏の風土に培われた越後(現新潟県)との国境に近い信濃(現長野県)・柏原に生まれました。3歳の時母くにが亡くなり、8歳の時父弥五兵衛が後妻を迎え、弟専六が生まれ、継母との関係が悪化。これまで一茶の良き理解者であった祖母かなに14歳の時死に別れ、そして15歳で江戸に奉公に出(され)ます。その後の足取りは定かではありませんが、25歳の時葛飾派という俳句の門に入り、49歳まで関東及び関西等において俳句の道を懸命に勉強します。
 39歳の時故郷柏原に約1ヶ月間戻り、父の看病を親身になってします。この時書かれたのが『父の終焉日記』です。父は一茶を不憫に思ったのか、遺産を弟専六と半分ずつにするとの遺言を遺します。 継母と弟は、承服せず、現在の財産は、自分たちの働きで大きくなったのだといいはり、父の死後10年にわたる凄絶きわまる遺産相続争いがおこります。
 51歳の時父の13回忌を営んだのを機会に、お手次の明泉寺ご住職の調停で遺産相続争いの和解が成立します。その内容は、父の遺言どおり、田畑・家屋敷・家財の2分等及び和解までの10年分の補償金11両2分(一茶は当初30両を要求)でした。翌年一茶52歳の時、28歳のきくと結婚します。長男、長女、次男、3男と次々と生まれますが皆夭折します。(長男千太郎 28日 発育不全、長女さと 1年2ヶ月 天 然痘、次男石太郎 96日 母の背中で窒息死、3男金太郎 1年9ヶ月 栄養失調と言われています。)57歳の時に、元旦から暮れにかけての1年間の句文集『おらが春』を著します。妻のきくも37歳の時(一茶61歳)に亡くなり、翌年38歳のゆきと再婚しますが、すぐに離婚。そして、亡くなる前の年に3番目の奥さんやを(32歳)を迎えました。
 65歳の6月、柏原の大火で一茶の家は類焼にあい、門人宅に身を寄せますが、11月8日柏原に戻り、19日土蔵の仮住まいの中で中風の再発で亡くなります。(法名 釈一茶)一茶が亡くなった翌年の4月に娘やたが生まれます。
 一茶の生涯を概観してみた時、決して家庭的に恵まれていたとはいえず、10年にわたる遺産争い持病のおでき・中風等に終始悩まされ、そして、当時の俳諧の世界での軋轢と相まって、苦難の生涯であったといえます。

▲小林一茶の俳句の特徴とその由来は?
◆その一茶が、一茶の俳句の特徴である、「庶民性」「軽妙性」「滑稽性」に富み、それでいて人情味に溢れ、そして、東京大学名誉教授であった早島鏡正先生の言葉を借りれば、「その庶民性の中に真理性とかあるいは宗教性といった高貴なものが隠されている。」(『念仏一茶 そのやさしさの秘密』四季社刊 P25)という句を多く詠まれた「秘密」は、どこにあるのでしょうか。

▲念仏一茶 そのやさしさの秘密
◆父を看病していた時(39歳)に書かれた『父の終焉日記』に次のことばがみられます。「父の本復うたがひなしと力を添る人は詞のつやながらもうれしく、往生をすすむる人は、誠かはしらねどもうらめしき。」 父の病状が悪化し、見舞いに訪れた客がこう述べたこと、また、父の死後、遺産相続争いのすさまじさ、そして、遺産相続の件が和解し、妻を迎えた後の一茶の心とを比してみると、念仏一茶といわれるように、より一層の深化が見受けられるようになります。妻をめとり、最愛の子どもたちの夭折や妻との相次ぐ離別という逆縁を経て、聴聞(ちょうもん)に励み真実信心の世界に出遇っていったといえます。また、柏原という地で培われてきた、念仏の風土の中で育てられ、父弥五兵衛の信心に生かされていった姿を通じて、体現されたといえるのではないでしょうか。
 このことは、次の句によく表されていると思います。

▲お念仏の心を詠んだ一茶の俳句あれこれ
◆熱心にお寺参りをし、聴聞に励んでいたであろう一茶・・・
 「本堂にぎつしりつまる藪蚊哉」

 (藪蚊におとらず本堂一杯に熱心に聴聞する門徒た

  ち、わたし一茶もその一人・・・)
 「なむあみだ仏の方より鳴蚊哉」

 (耳障りに思える蚊の羽音も、阿弥陀如来のお呼び声

  に聞こえます・・・)
 「花ちるや称名うなる寺の犬」

「法談の手真似も見えて夏木立」
◆小さな生き物に注ぐ優しいまなざし、み仏の心・・・
 「堂の蠅珠数する人の手をまねる」

  (本堂にまぎれて入ってきた蠅。おまえも法談を聴聞

  しにきたのか。合掌して・・・)
 「蠅一つ打てはなむあみだ仏哉」

  (むだな殺生してはならぬと聞いてはいるが。慚愧の

  心・・・)
◆諸行無常の世と聞かせていただいていたが・・・・
 長男を生後28日で亡くした一茶は、長女のさとを授かりました。初めて迎えた元旦に次の句を詠み、健やかな成長を願う一茶でした。
 「這へ笑へ二ツになるぞけさからは」
 しかしながら、さとは、6月に天然痘で急逝します。そして、
 「露の世は露の世ながらさりながら」と吐露します。
◆わたしにとどいた弥陀の慈悲・・・
 「涼しさや弥陀成仏の此のかたは」

 (弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり

  法身の光輪きはもなく 世の盲冥をてらすなり

  浄土和讃)
 「ととさんやあのののさんがかかさんか」
 「弥陀仏の見ておはす也ちる桜」
 「年よりや月を見るにもナムアミダ」
◆愚の自覚
 「春立つや愚の上に又愚にかへる」 (一茶 還暦を迎えた元旦の句)
  阿弥陀仏の光明に照らし出されたわたしは「愚か者=煩悩具足の凡夫」と知らされます。この「愚」の自覚は、天台宗を開いた最澄も「愚が中の極愚」、良寛も「大愚良寛」、親鸞聖人ですら「愚禿親鸞」と名のられています。人は往々にして我慢(俺がオレがの慢心)、「俺は賢い」と誇示しがちです。しかし、本当の賢者は、「愚」という表明がおのずとできる人ではないでしょうか。 親鸞聖人のお言葉にも「外に賢善精進(けんぜんしょうじん)の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮(こけ)を懐ければなり」(愚禿抄 ぐとくしょう)とお示しくださっておられます。39歳の時、父を看病していた頃、それから10年にわたり遺産相続争いをしていた通 俗的な一茶が、この「愚」の自覚ができるまでには、その後の20年という長い求道生活があったのではないでしょうか。              合掌

 

参考資料
『一茶発句全集』

  長野郷土史研究会 小林一郎編
『念仏一茶 そのやさしさの秘密』

  早島鏡正著 四季社
『人生の悲哀 小林一茶』

  黄色瑞華著 新典社 他