2017.8.6 8月法話会 源信とその母       最誓寺住職 堀田了正

平成29年 門信徒だより   平成29年8月6日(日) 
  慈 光(じこう)
 今回は「源信」です!

1 「源信 げんしん」の千回忌法要勤修!
平成29年2月14日(火)、比叡山延暦寺(天台宗総本山)の僧で浄土教の祖とされる恵心僧都源信和尚(えしんそうずげんしんかしょう 以下源信)(942~1017)の千回忌法要が、西本願寺阿弥陀堂で天台宗(森川宏映座主・91歳)と合同で営まれました。(本願寺新報2017年3月1日号参照)
西本願寺は親鸞が開いた浄土真宗。延暦寺は最澄が開いた天台宗です。同じ仏教でも、2つの宗派には長い対立があり、寛正6年(1465)蓮如上人51歳の時には、大谷本願寺が延暦寺に攻撃されて、焼き討ちにあったこともありました。
毎日新聞2017年2月14日号は「天台座主が西本願寺で初法要 対立の歴史こえ」の見出しのもと、西本願寺本多執行長の「排他主義が広がる世界に向け、宗派を超え平和を呼びかけたい」、また、天台宗小鴨副執行の「色々な違いを持ったもの同士がいがみ合ったりするようなことが強調される世の中ですけども、そこを乗りこえて」のコメントを紹介し、今回の合同法要が極めて重要な意義があることを強調していました。

2  比叡山を代表する僧「源信」
今から千年ほど前の平安時代中頃、大和国(現在の奈良県)に、日本で初めて往生浄土の道を説き、日本浄土教の祖と仰がれた源信が誕生しました。
父を7歳で亡くした源信(幼名千菊丸)は、母の手で育てられながらある僧と出逢い、出家を勧められて良源の弟子になる決心をし、9歳の時比叡山に入り、14歳で得度し、学問、修行に励まれました。
15歳で早くもその英才が認められ、村上天皇の招きを承け、比叡山を代表し宮中で4時間にもわたり、あらゆる経典を講義しました。天皇は、年若い源信の、堂々たる弁舌に感嘆し、褒美として、七重の御衣、香炉箱などの珍宝を与えたと言います。さらに「僧都」という高位の称号を授けられました。

 

 3  源信に届いた「母からの手紙」は、日本史上、最も有名な手紙
源信は、母が自分の出世を何よりも喜んでくれるに違いないと、早速事の顛末を手紙にし、褒美の品々とともに郷里へ送りました。しかし、母は送られてきた品々を封も切らないまま、次の歌を添えて送り返してきました。


後の世を 渡す橋とぞ思いしに
 世渡る僧と なるぞ悲しき


「あなたをみ山に登らせたのは、この世で苦しみ迷う人々を仏さまの世界に渡してあげる橋の役目になってほしいと願ったからです。しかし、あなたは宮中に出入りして天皇から高い位をもらった、褒美の品々をもらったと自慢し、ただの世渡り上手の僧侶になってしまわれたのですね。この母はこの上もなく悲しみで一杯です。」と厳しく諭されたのです。
この厳しい母の戒めは源信の心に深く刻み込まれました。それから後、一層厳しい仏道修行に専念しましたが、修業を重ねるほどに、学問を極めるほど我は正に極重の悪人であると我が身の煩悩の深さを思い知らされるのでした。
ついに源信は、比叡山でも最も奥深い横川に住まわれ、極重悪人の救われる道を、求めるようになりました。横川の草庵においても、源信の煩悶の日々は続きました。そして、40歳を過ぎたころ、中国の善導大師(七高祖の第五祖)の著書に出会い、悟りへの道は色々あるが、自分のように罪深い愚か者は、ただ念仏より外に道なき事を確信するに至りました。

 

4 母への臨終説法
母にもこの真実を伝えたいと故郷に旅立ちましたが、母は年老いて病床の身となって、明日をも知れぬ容体でありました。源信は、今まさに臨終を迎えようとしている母に、どんなに罪の深い者でもお念仏によりお浄土に参らせて頂ける事を説法したのでした。この説法を聞き母は、「あなたをみ山に送って三十年余、今こそその淋しさに耐えてきた甲斐があった」と喜び、お浄土に還っていきました。
源信は、横川の草庵に帰り、母の往生を期に一編の書物を著述されました。これが世に有名な『往生要集』であり、我が国浄土仏教の祖として、親鸞聖人にも多大な影響を与えられました。源信は、76歳にて生涯を閉じられました。
本堂右余間(御本尊向かって左側)の掛軸には、七高僧の一人として源信の絵像が画かれてあります。
なお、紫式部の『源氏物語』、芥川龍之介の『地獄変』に登場する横川の僧都は、源信をモデルにしているとされています。

 

5 正信偈「源信章」
親鸞聖人は源信を我が国に初めてお念仏のみ教えを広められた方として、浄土真宗の七高僧の一人(第六祖)に挙げられました。そして、親鸞聖人は、主著『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証 きょうぎょうしんしょう』)「行巻」の末尾にある偈頌『正信念仏偈』(『正信偈 しょうしんげ』)「源信章」で、次のように示されています。

【原文
 源信広開一代教(げんしんこうかいいちだいきょう)
 偏帰安養勧一切(へんきあんにょうかんいっさい)
 専雑執心判浅深(せんぞうしゅうしんはんせんじん)
 報化二土正弁立(ほうけにどしょうべんりゅう)
 極重悪人唯称仏(ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ)
 我亦在彼摂取中(がやくざいひせっしゅちゅう)
 煩悩障眼雖不見(ぼんのうしょうげんすいふけん)
 大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)

【書き下し文】
源信広く一代の教えを開きて ひとえに安養に帰して一切を勧む
専雑の執心浅深を判じて 報化二土を正しく弁立せり
極重の悪人はただ仏を称すべし 我またかの摂取の中にあれども
煩悩に眼障えぎられて見たてまつらずといえども 大悲倦ことなく常に我を照らしたもう

【現代語訳文】
源信和尚は、お釈迦様の一代の教えを広く説きあかした後、ただ浄土の教えに帰依して、一切の人々にも往生浄土の道を勧められました。和尚は、信心の深い人と、浅い人に分けて、真実の浄土(報 信心の深い人)と方便の浄土(化 信心の浅い人)の違いを示し、極重の悪人であっても、ひたすら念仏を称えよと勧められました。そして、私もまた阿弥陀如来の光明の中に照らされているのだが、煩悩のため、眼がくもって見えない。しかし、阿弥陀如来の大悲は、常に私を照らしているのです。