千葉県 浄土真宗本願寺派 最誓寺 2月法話会・新年会「西行法師と涅槃会」

2017(平成29)年2月19日

最誓寺住職 堀田了正

 

2017年最初の法話会が、2月19日(日)に開催されました。

正信念仏偈を草譜にてお勤めした後、住職による法話「西行法師と涅槃会」、その後会場を最誓寺会館に移して、懐石料理店「花あかり」の懐石料理をいただきながら、新年会を行いました。

2017年2月法話会

  2月19日(日)12:00~13:00

【法話】「西行法師と涅槃会」

1 はじめに
  2月15日は、4月8日の花祭り(降誕会 ごうたんえ)、12月8日の成道会(じょ 

 うどうえ)と並び、お釈迦さまを尊ぶ大切な仏教行事です。
  今回は、西行法師が詠まれた和歌とこの和歌と関連する、2月15日の涅槃会について 

 学びたいと思います。

2 西行法師の詠まれた和歌
  さて、2月になりますと、いつも次の和歌が思い起こされます。
   願はくは 花の下にて 春しなん そのきさらきの 望月のころ (山家集)
  この和歌は、西行法師(注1)の詠まれた和歌で、山家集に収められている歌々の中で、
   「心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ」
  と共に、私の好きな歌です。
   「きさらき」は「きさらぎ」=「如月」で、旧暦の二月。(太陽暦では、三月末頃)
   「望月」=「十五日」で、満月。
   この和歌は、西行法師の山家集の「花の歌あまたよみけるに」と前書きした27首の

  中に収められている一首です。
   ※意味 でき得るならば、お釈迦様が亡くなられた2月15日(2月の満月)の頃、

       桜の下にて、死にたきものよ
   「如月の望月の頃」は、旧暦の2月15日(満月)  に当たり、西行の熱愛した桜の花盛

  りの時季に当たり、しかも、釈迦の入滅の日に当たります。
   西行法師は、出家の身として、とりわけその日に死にたいという願いを込めて詠んだ

  歌ですが、その願い通りに、建久元年(1190)2月16日、73歳で河内の弘川寺

  にて往生したと伝えられます。

   当時の人たちは、西行の願い通りに(一日遅れではありましたが)、釈尊が入滅(涅

  槃)された日に亡くなられたことに、感嘆したと伝えられています。

 

◆注1 西行法師
 幼い頃に亡くなった父の後を継ぎ17歳で兵衛尉(ひょうえのじょう、皇室の警護兵)となる。西行は御所の北側を警護する、院直属の名誉ある精鋭部隊「北面の武士」(一般の武士と違って官位があった)に選ばれ、同僚には彼と同い年の平清盛がいました。22歳の時妻子と別れて仏道に入りました。阿弥陀仏の極楽浄土が西方にあることから「西行」を法号としました。
 勅撰集「千載和歌集」には西行の歌が18首、「新古今和歌集」には94首も採られていてます。歌集に「山家集」があります。

3 釈尊の生涯について
  西行法師が亡くなるのを願われた2月15日は、仏教を説かれた釈尊が涅槃に入られた  

 (入滅された)日でした。

  そこで、涅槃会をお話しする前に、釈尊の生涯を概観しておきましょう。

 

  釈尊は、紀元前5世紀ごろ、大国コーサラ国に属する釈迦族の王族の子として、北イン 

 ド(現ネパール領)のルンビニーに誕生(4月8日)。

  16歳で結婚、一子を授かり、生まれてからずっと何不自由ない生活を送っていまし

 た。
  しかし、居城・カピラ城の門の外で老人や病人、死者に出会ったことから、この世の四

 つの苦しみ「生老 病死」を知り、また、欲を捨て修行に生きる出家者のおだやかな姿に

 心を動かされ、地位も財産もすべて放棄し、29歳の時に出家されたのでした。
  そして、あらゆる苦行を勤められ、35歳の時、ブッダガヤの尼連禅河(にれんぜんが)の

 ほとり、菩提樹の下で、ついに成道(悟り)を開かれました(12月8日)。
  サンスクリット語で覚者(悟った者)という意味の仏陀(ブッダ)となられた釈尊は、

 サールナートという地で修行仲間に初めて説法をされ、以来80歳までの45年間、イン

 ド各地を行脚して仏法を説き広められまし た。
  そして、80歳になって、持病の背中の痛みも思わしくなく、生まれ故郷へ向かう途中

 で、波婆城(はばじょう)にて純陀という人(鍛冶工の子)が布施として差し上げた茸(きのこ)

 料理に中毒され、体調を崩され、拘尸那竭羅(クシナガラ)の跋提河(ばつだいが)のほとり、

 沙羅双樹(さらそうじゅ)のもとで信者たちに囲まれて、静かに旅立たれていかれました。

  その後、信者の手によって遺骸は火葬され、遺骨は各地の塔(サンスクリット語でス

 トゥーパ、舎利塔、仏塔)に分けて祀られました。

 

4 2月15日の涅槃会と涅槃図について
  釈尊涅槃の模様は「涅槃経」に記されており、それに基づいて画かれたのが「涅槃図」

 です。
  涅槃とは、梵語でニルバーナといい、「吹き消す」・「消滅する」という意味で、すべ

 ての煩悩が消滅して悟りを完成させる境地を指しています。釈尊の入滅を「涅槃に入る」  

 といいます。旧暦2月15日の満月の日に入滅されました。釈迦入滅の2月15日に「涅

 槃会」という行事が勤められます。
  釈尊の涅槃すなわち入滅 (死) の情景を表わした図に、涅槃図があります。
  沙羅双樹下の宝座に北を枕にし、右脇を下にして横臥する釈尊を取囲んで、菩薩、天

 部、弟子、大臣などのほか、鳥獣までが泣き悲しんでおり、樹上には飛雲に乗って、臨終

 にはせ参じようとする釈尊の母摩耶夫人(まやぶにん)の一行が描かれているのが一般的

 な図様です。

◆涅槃図についての説明(上の涅槃図は、清水寺所蔵のものです。)
ア 満月 釈尊の入滅の日は2月15日のため、十五夜の美しい満月が描かれています。

イ 右上の雲上の一団
  最も大きく描かれているのは、釈尊の生母・摩耶(マヤ)夫人です。釈尊の弟子に先導

 されて、息子のもとへ向かっているところです。錦袋に起死回生の霊薬を持って天隆する

 際に沢山の鳥たちに邪魔され、沙羅双樹めがけて薬袋を投げ落としました。でも薬袋は沙  

 羅双樹の枝に引っかかって、釈尊には届かなかったのです。

ウ 薬袋と猫の関係
  涅槃図には、猫が描かれていません。理由としては、木に引っかかった薬袋を、釈尊の

 為にネズミが取りに行こうしたら、猫が邪魔したため、釈尊が薬を飲めずに亡くなったと

 言い伝えられています。
  猫とネズミ・牛の関係のお話があります。釈尊がお亡くなりそうだと、最初に知ったの

 は牛でした。そこで牛はネズミを誘いネズミを頭に乗せて駆けつけました。途中で猫が昼

 寝をしていたが、ネズミは猫を快くおもっていませんでしたので声を掛けませんでした。

 クシナガラに着いた途端、牛の頭に乗っていたネズミは、牛の前に飛び降りました。その

 ためクシナガラに着いた順番は、ネスミが一番、牛が二番ということになって、子、丑、

 寅、--という十二支の順番が決まったと言われています。それ以来猫はネズミを憎んで、追

 いかけるようになったと言われています。

エ 2株づつ計8本の沙羅双樹
  横になられた釈尊を囲んでいるのは沙羅双樹の木。この樹は常緑樹なのですが、釈尊の

 死に際して悲しみのあまり右4本は突然白く変色し枯れ、左4本は青々と葉を広げ、お釈

 迦さまの教えの不滅を表現しています。
 「沙羅双樹の花の色、盛者必衰理をあらわす」という『平家物語』の名文句は、この光景

 に依っています。

オ 頭北面西右脇臥(ずほくめんさいうきょうが)
  頭を北に、顔を西に向け、右脇を下にして入滅した釈尊の姿。
  亡くなられた方を北枕に寝かすことは、釈尊の涅槃に準じています。
  したがって、北枕を縁起(?)が悪いといって、避けることはないでしょう。  

カ 釈尊最後のお説法を聞きに集った動物たち
  釈尊の最後のお説法があるというので、50種ものたくさんの動物たちが集って来まし

 た。仏画の中で涅槃図だけに見られる特色です。
  虎や象、水牛といった日本には棲息しない動物や、空想の動物も描かれています。マム

 シのような人間に危害を与える動物もいます。彼らは平常は互いに喧嘩したり、喰いつ喰

 われつしたりしているのですが、このときばかりは争うことなく、みな一様に釈尊の死を

 悲しんでいます。馬はひっくり返って泣いています。

 

5 釈尊最後の説法
  釈尊は、まわりの者たちに対して、自分の亡き後は「ただ、自らをよりどころとし、真理をよりどころとせよ」とお説きになりました。釈尊の説いた教えと戒律を自分達の師としなさいと言われたのです。
  この教えを「自燈明(じとうみょう)・法燈明(ほうとうみょう)」と言い、「自分自身を頼り(燈明)としなさい。そして、私を頼りにするのではなく、私の説いた法を頼りとしなさい。」と説かれました。
  すべての真理を説き終わった後、「私は、なんじらに告げよう。すべてのものは移り変っていゆく。放逸 (心が散漫になり修行に専心できないこと)なることなくして、精進するがよい。これが、私の最後の言葉である。」と告げられ、静かに目を閉じ、二度と言葉を発することなく、最高の禅定に入り、やがて完全な涅槃に入られたのです。